照明が扱うのは光ではなく「見え」|Cuttle が冒頭に置いた錯視

Checker Shadow Illusion(市松模様と影の錯視)とエドワード・アデルソンの肖像スケッチを組んだアイキャッチ

照明設計の専門書が、数式でも、器具の性能表でも、配灯図でもなく、一枚のだまし絵から始まる。

私が Christopher Cuttle の本を信用したのは、この始め方を見たときでした。

照明を語るとき、多くの人はすぐに器具の話をします。何ルーメンで、何ワット相当か。どのメーカーの、ダウンライトか、ペンダントか、間接照明か。

日本の住宅照明では、とくにその傾向が強い。照明計画と呼ばれているものの多くが、実際には器具の配置と明るさの計算で終わっています。

ところが、Cuttle はそこから始めません。彼が最初に置いたのは、人間の目がどのように世界を見ているかという問いでした。

それは、照明の話をする前に、まず「見える」とは何かを疑え、ということです。

この順番が正しい。なぜなら、照明設計が最終的に扱うのは、器具でも、光束でも、照度でもないからです。人の頭の中に立ち上がる「見え」です。

そのことを示すために、Cuttle は本の冒頭で Checker Shadow Illusion を取り上げます。

市松模様の盤の上に円柱が置かれ、その円柱の影が盤に落ちている。盤の中に A と B、二つのマスがあります。

私たちの目には、A は濃い灰色に見える。B は明るい灰色に見える。

ところが、この二つは物理的にはまったく同じ灰色です。同じ明るさ。同じ色。網膜に届いている光としては、完全に一致しています。

市松模様と影の明るさ錯視の独自再構成図(AとBは物理的には同じ明るさ)

考案したのは、マサチューセッツ工科大学の視覚科学者 Edward H. Adelson。1995年に発表された、人の色の知覚がどれほど周囲の文脈に左右されるかを示すための錯視です。

興味深いのは、Adelson が視覚の仕組みを説明するために作ったこの一枚を、Cuttle はまったく別の目的で使っていることです。錯視そのものは Adelson の発明ですが、それを「だから照明はこう設計する」という話につないだのは Cuttle でした。彼はこの絵を、照明を学ぶ人への最初の授業として、本の冒頭に置いています。

私はこの選択を、とても重要だと思っています。

なぜならこの一枚は、照明設計の出発点を根底から変えるからです。

私たちは、光をそのまま見ているのではありません。目に入った光を、脳が場面として読み直したものを見ている。

つまり、照明設計の対象は光そのものではない。光によって人間の知覚に立ち上がる、空間の読みなのです。

目次

白い紙を被せると、同じ灰色に戻る

単体の色と関係の中の色の対比(白い台の素材サンプルと夜の室内に貼られた同じ素材)

Checker Shadow Illusion の種明かしは、とても示唆的です。

絵の上に白い紙を被せる。そして、A と B のマスの部分だけに穴を開けて覗く。

すると、二つのマスは誰の目にも同じ灰色に見えます。紙をどけると、また別の明るさに分かれて見える。

同じものなのに、見えが変わる。物理的な色が変わったわけではありません。変わったのは、周囲との関係です。

Cuttle はこれを、色の「見え」には二つの見え方がある、という枠組みで説明します。

穴から覗いた灰色は、周囲から切り離された、ただの色です。一方、絵の中の灰色は、盤や円柱や影との関係の中で見られた色です。

人間の知覚は、関係の中に置かれた色を、単体の色としては処理しません。それを「場面の中にある物」として読みます。

そして、場面として読んだ瞬間、脳は勝手に照明の事情を差し引き始める。

影の中にあるマスは、影で暗くなっているはずだ。だから、その物自体の明るさはもっと明るいはずだ。

この補正を、私たちは意識のずっと手前で行っています。

Cuttle の言い方を借りれば、照明についてのこの生得的な理解は、脳に組み込まれている。だから、意識で簡単にくつがえすことはできません。

だまし絵だと知っていても、A と B は違う色に見え続ける。

ここが重要です。

これは「目は当てにならない」という単純な話ではありません。むしろ逆です。

人間の目と脳は、世界を成立させるために、光の条件を補正しながら見ています。その補正があるから、私たちは影の中の白い紙を白い紙として見られる。夕方の室内でも、机を机として、壁を壁として、素材を素材として読める。

つまり、この錯視は目の欠陥ではありません。人間の見えの仕組みそのものです。

そして照明設計は、その仕組みを前提に組まなければならない。

この「二つの見え方」の区別は、内装を選ぶ人にとっても他人事ではありません。

ショールームで手に取る素材サンプルは、多くの場合、白い台の上で単体として見ています。つまり、穴から覗いた灰色に近い。周囲から切り離された色です。

ところが、その素材が家に貼られた瞬間、色は単体ではなくなります。床との関係。天井との関係。窓から入る光との関係。隣り合う壁の反射。朝、昼、夕方、夜の光。

そのすべての中で見られる色に変わります。

「サンプルではよかったのに、貼ったら違って見える」「ショールームでは明るかったのに、家ではくすんで見える」「同じ白のはずなのに、壁と天井で違う白に見える」

こういう落胆は、業者のごまかしだけで説明できるものではありません。多くの場合、知覚のモードが切り替わった結果です。

単体として見た色と、場面の中で読まれる色は違う。

だから私は、サンプルは必ず使う部屋で見ます。使う面の向きで、使う時間帯の光で確かめます。

床に使うなら、床の向きで。壁に使うなら、壁の垂直面で。朝に見る部屋なら朝の光で。夜に過ごす部屋なら、夜の照明で。

単体の色を選んでも、住むのは関係の中の色だからです。

ここを外した内装選びは、いくら高い素材を選んでも危うい。素材の色は、カタログの中にあるのではありません。空間の関係の中で立ち上がるものです。

緑の円柱は、本当は一色ではない

光のグラデーションを読むと立体に見え、一様な緑で塗るとただのシミになる緑の円柱の対比図

Checker Shadow Illusion には、もうひとつ私が唸った仕掛けがあります。

盤の上に置かれた、緑の円柱です。

あの円柱は何色かと聞かれたら、ほとんどの人は「緑」と答えます。一様な緑の物体だと読みます。

ところが画像をよく見ると、円柱の表面の緑は一色ではありません。明るい緑から暗い緑まで、大きく揺れています。上の縁には、かすかな光の反射まで載っている。

それでも私たちは迷いません。「一様な緑の円柱に、光が当たっている」と読む。

ここにも、人間の知覚の本質があります。

私たちは、表面に見えている色のばらつきを、そのまま「色ムラ」として受け取っているわけではありません。光が当たっている。丸みがある。影ができている。艶が少しある。

そうした場面の条件を読み込みながら、ひとつの物体として理解しています。

Cuttle は、逆の実験も見せます。円柱の輪郭の中を、本当に一様な緑で塗りつぶすとどうなるか。

立体感は消えます。円柱ではなく、ただの緑色のシミのように見える。

つまり、私たちが円柱を円柱として見られていたのは、「一様な緑」が見えていたからではありません。表面に載った明るさのグラデーションを読んでいたからです。

光と物が相互作用してできる陰影のパターン。それを脳が読み取って、形や素材や艶を判断していた。

ここが、この錯視の本当の教えです。

物の形も、素材の質感も、私たちは物そのものから直接読み取っているわけではありません。光が物の上に描くパターンから読み取っています。

この理解は、住宅の照明計画にそのまま返ってきます。

素材が美しく見えない。タイルの質感が出ない。木目が平板に見える。石の重さが伝わらない。革の艶が安く見える。

その原因は、素材ではなく、光が描いているパターンにあるかもしれません。

Cuttle はこのパターンを、三種類に整理しています。

面の明るさがなだらかに移ろう陰影。物が光を遮って生まれる影。艶のある面に光源が映り込む輝き。

あの緑の円柱の上には、実はこの三つがすべて載っていました。

丸みを伝える陰影。盤の上に落ちる影。上縁のかすかな輝き。

私たちはこの三つを同時に読んで、「艶のわずかな、一様な緑の、円柱」という答えを一瞬で出しています。

逆に言えば、この三つのパターンがうまく出ない光の下では、物は形も質感も語れません。

ここで、日本の住宅照明の問題が見えてきます。

部屋全体をただ均一に明るくする。影を消す。ムラをなくす。すべてを見やすくする。

その発想は、一見親切です。しかし、光のパターンまで消してしまえば、素材は黙ります。

陰影がなければ、形は立ち上がらない。影がなければ、物と面の関係は読めない。輝きがなければ、艶は語れない。

高い素材が安く見える瞬間と、安い素材が思いのほか上等に見える瞬間は、ここから生まれます。

素材の価格だけが、空間の質を決めるのではありません。その素材の上に、どんな光のパターンを描けているか。そこまで含めて、素材の見えは決まります。

だから私は、素材選びと照明計画を別々の工程として扱いたくありません。

どの素材を選び、どんな陰影を出し、どの方向から光を受けさせるか。艶を語らせるのか沈黙させるのか、影を落とすのか柔らかく包むのか。

この順序で考えないと、素材は空間の中で本来の表情を持てません。

照明設計の対象は、光ではなく知覚だった

同じ家の昼と夜の見え方の対比(昼は素材が読め、夜は光の模様になる)

なぜ、照明の教科書がこの錯視から始まるのか。

理由は明快です。照明設計の最終成果物は、部屋に届く光の量ではないからです。

人の頭の中に立ち上がる「見え」。それが、最終成果物です。

網膜に届く光がまったく同じでも、見えは変わる。ということは、物理量を揃えることと、見え方を揃えることは別の作業です。

照度計が示す数値をいくら整えても、それは網膜への入力を整えただけです。脳がそこから何を読み取るかまでは、まだ制御していません。

ここを取り違えると、照明計画はすぐに lumen dumping へ戻ります。つまり、明るさを流し込むだけの処理です。

何ルクスあり、何個つけるか。基準を満たしているか。

その問いは必要です。ただ、それだけでは足りない。

その光を、人の脳はどんな場面として読むのか。その面は明るく感じられ、素材は質感を語れ、影は形を立ち上げているのか、それともただ邪魔な暗さとして見えているのか。

そこまで見なければ、照明設計にはなりません。

Cuttle の言い方では、網膜に映る像は、外の場面の光学的な投影にすぎません。知覚はそこではなく、脳の視覚野で起きる。

私たちが最終的に受け取っているのは、明るさと色のパターンそのものではありません。面と物でできた場面のまとまりです。

だから、場面を輝度の数値だけで分析しようとする試みは、挫折する運命にあった。彼はそう書いています。

Cuttle の体系が、量の基準ではなく知覚の側から組み立てられているのは、この一枚の絵が示す事実の必然的な帰結でした。

照明を考えるなら、まず光ではなく、人間の見え方から始める。器具ではなく、知覚から出発する。数値ではなく、場面としてどう読まれるかから始める。

私はこの順序を、modernova の一番深いところに置いています。

この二つの見え方の切り替えを、Cuttle は一枚の建物でも見せています。シャルトル大聖堂の昼と夜です。

昼の写真では、石の質量も素材も読み取れます。建物は大地に据わり、石の大聖堂として見える。

ところが夜のライトアップでは、同じ建物が光のパターンだけで浮かび上がります。素材の区別は弱まり、まるで建物そのものが発光しているように見える。

夜景としては美しい。それでも、そこにはもう昼間と同じ意味での「石の大聖堂」は写っていません。

周囲の明るさが十分にあるとき、私たちは物の属性を読みます。素材、質量、形、奥行き。そうしたものを場面として受け取る。

一方、暗さの中では、明るさそのものが支配します。物は、光の模様になる。

この切り替えは、住宅の外構ライトアップでも起きます。

夜の家が、妙に書き割りのように見えることがあります。立体としてではなく、光のパターンだけで貼りついたように見える。

それは、建物の素材や量感を読ませる光ではなく、明るさの模様だけを作ってしまっているからです。

外構照明も、家を明るく見せればいいわけではありません。石を石として読ませ、壁を面として浮かび上がらせるのか。植栽の奥行きを出し、玄関の気配を整えるのか。

何を場面として読ませたいのかを決めなければ、光はただ建物の表面に貼りつくだけです。

私はこの章を読んでから、部屋の中で「色が変わって見える」現象への態度が変わりました。

夕方になると壁の色がくすんで見える。同じ白のはずの天井と壁が、違う白に見える。昼はきれいだった素材が、夜になると急に安く見える。

以前なら、照明か塗料の不具合を疑ったかもしれません。もちろん、実際に不具合がある場合もあります。

いまは、まず考えます。

脳は、この部屋をどんな場面として読んでいるのか。この色は単体の色として見られているのか、それとも影や反射や周囲の明るさの中で補正され、素材の上に形や艶を読めるパターンが描かれているのか。

狂っているのは物ではなく、読みの前提のほうかもしれない。

この視点があるだけで、内装と照明の見方は変わります。

modernova はどこを採用し、どこを採用しないか

modernova がこの章から採用するのは、まず「見えは網膜の数値ではなく、脳の構成である」という土台そのものです。

内装や照明を判断するとき、私は「実物の色」や「実際の明るさ」を絶対視しません。もちろん物理的な色や明るさは存在します。測ることも、数値として管理することもできます。

とはいえ、人が住まいの中で受け取るのは、その数値そのものではありません。

面どうしの関係で決まる明るさ感。光と物の相互作用によって生まれる陰影。素材の艶が返す輝き。周囲との対比によって補正された色。

そうしたものが、脳の中で場面として組み立てられた結果を、私たちは「空間」として受け取っています。

だから、modernova は照明を器具から考えません。まず、何がどう見えるべきかから考える。

どの面を明るく感じさせ、どの素材に質感を語らせるのか。どの影を残し、どの輝きを許し、どの色をどの時間帯の光の中で成立させるのか。

この順序は、私の空間の見方の一番深いところに置いてあります。

面どうしの関係で決まる明るさ感(MRSE) の考え方も、ここにつながっています。部屋の明るさは、床の照度だけで決まるのではありません。面から返ってくる光を、人の脳がどう場面として読むかで決まる。

だから、壁や天井や家具の面をどう扱うかは、照明計画の中心です。付け足しではありません。

もうひとつ採用するのは、「陰影のパターンが物の正体を報告する」という読み方です。

素材が本物に見え、形が形として通り、艶が上等に見えるか。石が重く、木が深く、革が柔らかく見えるか。

それは、その表面に光がどんなパターンを描けているかに懸かっています。

この考え方を持つと、素材選びと照明計画を分けて考えることができなくなります。

素材を選ぶ。そのあとで、標準照明を当てる。

この順番では足りません。

素材が何を語るべきかを先に決める。その素材が語れる光を考える。その光を作る器具や納まりを選ぶ。

この順番でなければ、空間の見えは整いません。

一方で、採用しないこともあります。

錯視の話を、「目は騙されるから当てにならない」という結論に流すことです。

これは、照明や内装の話でよく起きます。目は錯覚する。だから感覚は信用できない。だから数値で判断しよう。だから基準に戻ろう。

私は、そこには行きません。

Cuttle の主張はむしろ逆だと読んでいます。この補正機構こそが人間の見えの正体なのだから、設計はそれを前提に組め、ということです。

目を疑うのではありません。目の癖ごと設計する。

人は影の中の白を白として見る。艶のある面に小さな光源が映れば、それを輝きとして読む。大きな発光面が黒いガラスに映れば、灰色の膜として読む。周囲との関係で、同じ灰色を違う灰色として判断する。

ならば、その読みを前提に、光を配るべきです。

だまし絵は、目の欠陥の証明ではありません。設計者が背負うべき仕様書です。

Cuttle が本の前提として掲げる一文も、それを言い切っています。目的は、目立つ照明を作ることではない。個々の物の見えを、思い描いた明るさの均衡の中に据えることだ。そういう趣旨の言葉です。

私はここに、照明設計の核心があると思っています。

照明は、器具を目立たせるためにあるのではありません。光を見せびらかすためにあるのでもありません。部屋の中にある物や面が、それぞれ意図した見え方で立ち上がるように、明るさの均衡をつくるためにあります。

その均衡の中で、壁は壁として見える。床は床として沈む。素材は素材として語る。家具は輪郭を持つ。影は空間に奥行きを与える。輝きは、必要な場所だけに宿る。

照明設計とは、その状態を組み立てることです。

だから、modernova は照明を「明るくする技術」として扱いません。「見えを統治する技術」として扱います。

そして、その出発点にあるのが、Cuttle が本の冒頭に置いた一枚のだまし絵でした。

網膜に届く光が同じでも、見えは変わる。同じ色でも、関係の中では違って見える。一様な緑では、円柱は円柱に見えない。陰影と影と輝きがあって、はじめて物は物として立ち上がる。

この事実を受け入れたとき、照明計画は器具選びから離れます。数値だけの計画から離れ、人間の知覚を前提にした設計へ移ります。

家の光を考える人が、この錯視から持ち帰るべきものは、ひとつです。

見えているものは、物そのものではない。光と物と脳がつくった、場面の読みである。

ならば、照明設計とは、その読みを偶然に任せないことです。

なお、光が素材の本性を引き出す条件は、素材の表情は光がつくるという考え方 で掘り下げています。

参考文献

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