照明の世界には、いまも設計の骨格として生きている古典的な整理があります。20世紀半ばのアメリカで活躍した照明デザイナー、Richard Kelly(リチャード・ケリー、1910–1977)が示した「光の三要素」。私はこれを、Gordon の教科書『Interior Lighting for Designers』で最初に読みました。原典からの孫引きになりますが、それでも紹介したいのは、この整理が、抽象的な理論としてではなく、人が昔から身近に接してきた光の経験そのものから語られているからです。数式や器具の話ではなく、誰もが身体で覚えている光の手ざわりから始まる。だから、小難しい理論よりもずっと入りやすい。Gordon はこれを Kelly が「詩的に定義した」と書きますが、その詩の正体は、光を数式ではなく経験の側から捉えた視点のことだと私は理解しています。
Kelly は光を、機能でも器具でもなく、人類が光と過ごしてきた記憶で分類しました。焚き火。霧の朝。宝石のきらめき。この三つの像が、そのまま照明設計の三本柱になっています。
そして Gordon がこの三分類を教科書の心臓に据えるとき、必ず添える一文があります。三要素の「比率」が、空間の感情の設定を決める、と。包む光と焦点の光の比が空間の明暗コントラストを決め、そこにきらめきが幸福感の分だけの輝きを足す。明るさの総量ではなく、三つの配分。この一点を先に握っておくと、以下の三つの像が、美しい比喩ではなく設計の変数として読めてきます。
第一の光 ── 包む光(ambient luminescence)

Kelly が最初に置いたのは、空間全体を満たす包みとしての光です。彼の言葉を借りれば、それは「open country の雪の朝」「山頂の黄昏のもや」「正午の白いテントの中の光」、そして「霧を透かして届く月明かり」。影のない、どこから来るとも知れない、あたり一面の光。
美しい描写ですが、Kelly はこの光を手放しで讃えてはいません。影のない光は、形と量感を消し、物と人の存在感を薄め、非物質化する、と彼は言います。それは自由と、広がりと、無限の感覚さえ与える。安心で、休息的です。ただ同時に、何を見ればいいのかは一切教えてくれない。霧の山頂を思えばいい。四方から均等に光が来て、影がなく、視線の行き先がない。落ち着く。しかし、その落ち着きは退屈と背中合わせです。霧の中を歩く人影は、輪郭を失って風景に溶けていく。包む光は、人さえも小さくします。
日本の住宅の「全体照明」は、ほぼこの第一の光だけで組まれています。Kelly の分類が刺さるのは、私たちの家の多くが、三要素のうち一つ目だけで止まっているという事実を照らし出すからです。天井の一灯が部屋を均一に満たすとき、私たちは「正午の白いテント」を毎晩再現していることになります。
第二の光 ── 焦点の光(focal glow)
二つ目は、見るべきものを指し示す光。Kelly の像で言えば「太古からの焚き火」「物語が語られる炎の残り火」「舞台のフォロースポット」「夜の窓辺に灯る明かり」「開いた扉から漏れる歓迎の光」「谷の奥を温める一条の日差し」。読書椅子の上の光だまり、飛行機の座席灯、顔を照らすマッチの火。彼はこれを、虹の端にたとえます。そこに視線が吸い寄せられずにいられない光。
彼の定義の核心は、この光の仕事が「分ける」ことにある点です。重要なものと重要でないものを分け、序列を作り、視線を固定し、ときに人の動きまで導く。焦点の光は空間に中心を作り、人の巡り方さえ整える。Kelly は traffic を制御する、とまで書いています。そして焦点がひとつでなく連なりになったとき、空間に奥行きの順序が生まれます。手前の焦点、その奥の焦点、さらに奥の焦点。この連なりが、平板な部屋に前後の物語を与える。
包む光が「どこにいても同じ」を作る光だとすれば、焦点の光は「ここが違う」を作る光。空間の性格は、ほとんどこの二つの光の比率で決まります。Kelly と Gordon が繰り返すのはこの点です。決め手は明るさの総量ではなく、包みと焦点の比。この一点だけでも、Kelly を知る価値があります。
第三の光 ── きらめき(play of brilliants)
そして三つ目は、感覚としては誰もが認識できているのに、照明計画に落とし込むのが難しい光です。Kelly の言葉では「開かれた洞窟で見つけた宝石の山の輝き」「何千本もの蝋燭が灯るヴェルサイユの鏡の間」「クリスタルのシャンデリアが並ぶ舞踏室」「夜のタイムズスクエア」「せせらぎの上で躍る日光」「満天の星」「車のヘッドライトに編まれる白樺並木」。
小さく強い光の点の群れ。Kelly はこれを scintillation、閃光と呼び、無数の微小な光の点による砲撃だと書きます。何かを照らすための光ではありません。視神経を直接刺激し、身体と精神を揺り起こし、好奇心を呼び、感覚を研ぎ、食欲さえ増進させる光。生きている感じだけを運んでくる、いちばん刺激的な光です。シャンデリアの粒、ドレスのスパンコール、劇場のマーキー。役に立たないのに、感覚を目覚めさせる。
自然界では、これらの光は当たり前のように存在し、共存しています。屋外では、空が包む光を配り、日を受けた草原や木々や建物の面が焦点の光になり、水面や濡れた葉や磨かれた金属の反射がきらめきを受け持つ。浜辺なら、空からの光と砂からの照り返しが穏やかな包みを作り、日を浴びた砂の城や人影や色鮮やかなビーチマットが焦点になり、波打ち際の濡れた石や揺れる水面の照りが第三の光を担う。屋外で私たちが飽きないのは、三要素が常に揃って、しかも刻々と配分を変えながら動いているからでした。室内でどれかを欠けば、その分だけ空間は自然から遠ざかります。
この第三の光であるきらめきには、ひとつ注意を添えておきます。きらめきは最も刺激的であると同時に、量を誤ればただの眩しさに転じてしまう。ある人にとっての輝きが、別の人にとってはグレア(設計されていない、不快なだけの眩しさ)になる。使うなら、粒は小さく、数で効かせる。この加減だけは、感覚まかせにせず慎重に設計する必要があります。ただしこのきらめきは、やはり個人の感覚の尺度による要素も多く、どのように設計するかと聞かれると難しいところではあります。ある角度からペンダントライトを見たときに、シェードから漏れる光。ホールを歩いていて、タイル壁にふと映るブラケットライトの一瞬の閃光。照明単体で考えるのではなく、こういった時間や人の動きが生む光の揺らぎこそが、照明計画に落とし込めるきらめきだと私は捉えています。
二つの光の比率が、部屋の温度を決める

三つの中でも、Gordon が特に丁寧に扱うのは包む光と焦点の光の比率です。彼はこの比率で、空間を二つの型に分けます。
拡散する光が多く、焦点の光が少ない部屋は、低コントラストの環境になります。応答すべき手がかりが乏しく、刺激が少なく、行動としては中立。作業には向いています。均一に照らされた面は、難しく持続的な視作業を楽にする。ただ Gordon はここに但し書きを付けます。この環境は見やすさを満たす代わりに、「曇り空がもたらす心理的な平板さ」という問題を素通りしてしまう、と。日本の住宅の全体照明が、ちょうどこの型です。よく見えるのに、気分が動かない。
逆に、拡散する光が少なく、焦点の光が多い部屋は、高コントラストの環境になります。光と影のパターンが浮かび、前景と背景のあいだに序列が生まれる。刺激が上がり、特定の気分や感情を呼び起こす。極端な例は、舞台に落ちる一条のスポットライトです。Gordon はこう書きます。そのように照らされた部屋は、中にいる人を従える。明暗の差が人の注意を導き、関心をつなぎとめ、視線に方向と焦点を与える、と。見慣れない空間に足を踏み入れたとき、人はまず明るさと色の差から状況を読む。差の設計は、人がどこを見てどう動くかまで含んだ設計でした。
だから設計の問いは「どちらが正しいか」ではありません。時刻と用途で比率を動かすことです。集中したい時間は低コントラスト寄りに、くつろぎと親密の時間は高コントラスト寄りに。同じ部屋でも、朝と夜で比率を変えていい。器具を足すより先に、包みと焦点の配分を時間で設計する。Kelly の三要素が実務の道具になるのは、この比率という一本の軸を握ったときです。なお、この比率を数値で設計する考え方は、のちに Cuttle が 対象と周囲の照度比(TAIR) としてまとめています。
夜のリビングを、三要素で点検してみる

この枠組みの使い方は簡単です。夜、自分のリビングの照明をいつも通りに点けて、三つの問いを順に当てるだけ。
包む光はどこから来ているか。天井の一灯がすべてを受け持っているなら、その部屋の包みは「白いテントの正午」です。休息の時間帯にしては、少し健康的すぎるかもしれません。焦点の光はあるか。読書椅子の上、食卓の上、飾り棚の中。視線の行き先を作る光がゼロなら、その部屋には「見るべきもの」が照明上は存在していないことになります。そしてきらめきは。ガラス、真鍮、水面、炎。小さく強い光の粒を返すものが一つでもあるか。ただし、素材の在庫確認で終わらせないこと。部屋を横切るとき、ソファから立ち上がる拍子に、一瞬だけ現れて消える光の揺れがあるか。きらめきの点検は、動きの中まで見て初めて終わります。
多くの家で、答えは「包みだけが過剰で、焦点が乏しく、きらめきは不在」になります。責める話ではありません。三要素のうち一つ目だけが、器具として売りやすく、図面に描きやすく、基準で測りやすいからです。残り二つは、暮らしの観察からしか設計できません。
modernova はどこを採用し、どこを採用しないか
正直に書くと、modernova はこの三要素を、Kelly が語ったそのままの形では採用していません。Kelly の語り口は、感覚から、経験から光を捉えるものです。焚き火や霧や宝石という、身体が覚えている像で光を分ける。美しいし、真実を突いています。ただ、私が空間を語るときの土台は、感覚ではなく物理と理論の側に置いています。面の反射率、光の分布、明るさの序列。同じ光を、私は数値と関係から設計します。
それでもこの記事を書いているのは、Kelly への敬意からです。理由は二つあります。ひとつは、彼が捉えた「感覚に訴えてくる光の性質」そのものは、まぎれもなく実在すること。焚き火の焦点も、霧の包みも、宝石のきらめきも、私たちの身体は確かにそう受け取っている。物理で設計する私も、この感覚の事実は否定できません。
もうひとつが、より大きい理由です。Kelly は理論家ではなく、実作の照明デザイナーでした。三要素は実験室の産物ではなく、現場で空間を成立させ続けた人が、経験から蒸留した直観です。そして、この直観が先にあったからこそ、後のデザイナーたちは「では、なぜ人はそう感じるのか」へ焦点を移し、光ともっと深く向き合うようになりました。感覚の分類が先に置かれ、その「なぜ」を問い直す作業から、光の分布や明るさの序列を物理で扱う体系が育っていく。科学は、この詩を否定したのではなく、後から確かめにきたのです。つまり、私がいま物理で光を設計できているのは、Kelly が感覚で光を分けてくれた地点から、道が始まっているからにほかなりません。
三要素を「三種類の器具」と読み替えることだけは、はっきり採用しません。ダウンライトが焦点でシャンデリアがきらめき、天井の全体灯が包み。そんなふうに光の役割を器具の種類へ一対一で振り分けてしまうことです。この器具のカタログ分類に落とした瞬間、枠組みは意味を失います。Kelly が定義したのは器具ではなく、光の働きでした。一本のフロアランプが、天井へ向ければ空間を包む光になり、手元へ向ければ焦点の光になる。役割は器具に固定されていません。
焚き火と、霧と、宝石。この分類が古びないのは、それが照明器具の分類ではなく、人間と光の関係の分類だからだと私は受け取っています。器具は世代ごとに新しくなっても、光をどう感じ取るかという私たちの身体のほうは、焚き火を囲んでいた頃から変わっていない。だから、その変わらない身体に向けて書かれた三分類は、どんな器具よりも長く生き続けます。
この記事で伝えたかったのは、方法でも道具でもありません。私たちがいま光を物理で設計できることの、そのルーツへの敬意です。
なお、あかりを「作業の光」と「空気の光」に分けて考える設計は、一室一灯を捨てるという考え方 で掘り下げています。
参考文献
- Gary Gordon『Interior Lighting for Designers』:本記事が Kelly の三要素を参照した引用元。
- 「光の三要素」の一次資料:John Marsteller, “A Philosophy of Light: Recalling Richard Kelly’s Three Functional Elements,” Interior Design, February 1987.
- Richard Kelly(照明デザイナー)Wikipedia(英語版)
- Richard Kelly の三要素(focal glow / ambient luminescence / play of brilliants)の公式解説:Richard Kelly Grant(IES ニューヨーク支部)— Who is Richard Kelly?
