光は部屋ではなく「場所」をつくる|Alexander の光だまり

Pools of Light(光が居場所をつくる)とクリストファー・アレグザンダーの肖像スケッチを組んだアイキャッチ

建築の世界には、一冊まるごと「よい場所のレシピ集」のような本があります。Christopher Alexander たちの『A Pattern Language(パターン・ランゲージ)』です。

街の作り方から、窓辺の座り方まで。人が心地よいと感じる環境の知恵が、253のパターンとして番号つきで並んでいる大著です。

私がこの本で何度も読み返すのは、光を扱った二つのパターンです。

253のうち、光に触れるパターンはいくつもあります。ただ、その多くは昼の光、つまり窓と太陽の話です。

夜の人工の光を正面から扱うものは、実質的には二つだけです。

ひとつは、建物全体の光の配置を語る「光と闇のタペストリー」。もうひとつは、夜の室内を語る「光だまり」。

半世紀近く前に書かれた本ですが、日本の住宅照明がいまも苦手としていることを、この二つのパターンはほとんど言い当てています。

日本の住宅照明は、部屋を明るくすることには慣れています。ただ、場所を作ることには慣れていません。

リビングを明るくする。ダイニングを明るくする。廊下を明るくする。寝室を明るくする。

そうやって、部屋ごとに同じような明るさを与えていく。しかし、それでは「場所」は生まれません。

部屋の数だけ場所があるのではありません。光の濃淡が生まれたところに、場所が生まれる。

Alexander の二つのパターンを、私はそう読んでいます。

目次

人は光に向かって歩く

暗い廊下の先の明るい窓辺へ人が引き寄せられる概念図(人は明るい方へ歩く)

「光と闇のタペストリー」というパターンの根には、ひとつの観察があります。

人間は、生まれつき光に引かれる性質を持っている。人は光の方へ歩き、立ち止まれば光の方を向く。

これは、とても単純な観察です。もっとも、住宅照明にとっては決定的です。

人に愛される場所は、たいてい周囲より少し明るい。

窓辺の腰掛け。ベランダ。炉端の隅。木漏れ日のある東屋。日が落ちたあと、ぽつんと明るいテーブル。

そういう場所には、人が自然に引き寄せられます。

Alexander はここから、「場所」というものの定義に踏み込んでいきます。建物の中に、人の営みの舞台となる場所が生まれるのは、光の濃淡がそこを区切るからだ。均一な光の建物には、そもそも場所が育たない。

私はこの考え方を、非常に重要だと思っています。

なぜなら、日本の住宅照明では、いまだに「部屋全体を均一に明るくすること」が善とされがちだからです。

暗いところをなくす。ムラをなくす。影をなくす。天井に器具を等間隔に並べる。どこでも同じように見えるようにする。

それは一見、親切です。ところが、光の濃淡を消すということは、場所の輪郭を消すということでもあります。

どこに向かい、どこに座ればいいのか。どこで話し、どこで一人に戻ればいいのか。

その手がかりが、光から消えてしまう。

人は光に向かって歩きます。ならば、照明計画は人の動きと切り離せません。

入口。階段。通路。座る場所。人が集まる場所。そして、とりわけ美しい場所。

人が向かうべき場所は、まわりより明るくなければならない。反対に、向かう必要のない場所は、あえて少し沈めていい。

光の配置が建物の意味と食い違うと、環境は自分自身と矛盾した案内を出し続けます。

本来は階段へ向かってほしいのに、別の壁だけが明るい。玄関へ導きたいのに、廊下の途中の何でもない場所がいちばん目立っている。リビングの中心へ人を招きたいのに、天井だけが均一に明るく、どこにも重心がない。

こういう照明は、空間の案内を間違えています。

Alexander の処方は明快です。

人が向かうべき場所を、まわりより明るくせよ。座る場所、入口、階段、通路、美しい場所を明るくせよ。それ以外は、あえて暗くして差を作れ。

ここで起きている転換は大きい。

明るさの計画とは、実は動線の計画だった。光は、ただ見えるようにするためだけのものではない。人を導くものです。

この視点を持つだけで、照明図の読み方は変わります。

器具がどこに付いているかではなく、人がどこへ向かうように光が組まれているかを見る。どこが明るいかではなく、その明るさが人の行為と合っているかを見る。

そこから照明計画は、設備図ではなく、暮らしの地図になります。

均一照明は「照明技師の恋人」

均一な光で場所が消える部屋と、光だまりで場所が生まれる部屋の対比図

夜の室内を扱う「光だまり」のパターンで、Alexander の筆はさらに辛辣になります。

均一な照明。彼の言葉では、「照明技師の恋人」。

それは何の役にも立たない。それどころか、空間の社会的な性質を壊し、人を方向感覚のない、輪郭のない状態にする。

かなり強い言葉です。

ただし、「恋人」という一語だけを取り出すと、ただの悪口に聞こえてしまいます。Alexander がなぜそう呼ぶのか、そこを押さえないと、揶揄の芯は伝わりません。

均一な光は、設計する側にとって、これ以上なく扱いやすいのです。天井に器具を等間隔で並べ、必要な照度を計算し、規定のルクスを満たす。図面の上で数値が揃い、「基準は満たしました」と紙の上で示せる。

照明技師にとって、均一照明はいちばん御しやすい規定値です。うまく機能するから手放せないのではありません。都合がいいから手放せないのです。

Alexander が「恋人」と呼ぶのは、そういう皮肉です。使う人のためではなく、設計する側の都合のために選ばれ続けてきた光。その一語に、批判の芯があります。

それでも、日本の住宅照明を見ていると、この批判は古くなっていません。むしろ、いまもそのまま刺さります。

Alexander がやり玉に挙げているのは、天井一面に等間隔で発光面を並べ、光をできるだけ平らに均した空間です。

天井から均一に明るさが降る。部屋全体にムラがない。どこも同じように見える。

一見、よくできた照明のように見えます。とはいえ Alexander は、これを空の光の模倣としても、人の居場所の作り方としても間違っていると見ます。

第一に、屋外の光は実際にはほとんど均一ではありません。

人間が進化してきた自然の場所の光は、もっと斑です。木漏れ日のように揺れ、場所ごとに変わり、時間とともに移ろいます。雲が動き、影が動き、光の濃淡が絶えず変化する。

均一光は、自然の模倣ではありません。自然にはない状態の発明です。

そしてこの発明が、いつの間にか業界の標準になった。

その経緯は、明るさを流し込む慣行 lumen dumping の記事でも書きました。寸法を測り、照度を満たし、器具を等間隔に並べる。処理としては合理的でも、場所を作る力は弱い。

第二に、そしてより深刻なのは、人が社会的に使う空間は、光によって区切られているということです。

光が完全に均されると、空間の社会的な働きが壊れる。Alexander はそう見ています。

人の集まりは、光によって縁取られたとき、はじめて輪としてまとまります。

テーブルと椅子を包む光の泡がある。その中に人が座る。顔が見え、手元が見え、周囲は少し沈む。すると、その集まりはひとつの輪になります。

反対に、境界のない均一な光の中では、同じ人数が同じ場所にいても、輪としてまとまりにくい。場の中心がなく、外との境界もないからです。

ここで Alexander は、実験の裏付けも引いています。照明研究者 Hopkinson と Longmore が1959年に発表した、注意と散漫の実験です。

小さく明るい光源は、大きくて薄明るい面よりも、人の注意を散らさない。だから手元の局所照明の下では、均一な背景光の下よりも作業への集中が続く。

Alexander は、この考えを人の輪にも広げます。互いの表情への注意を保ち続けられるのは、その輪が局所の光で縁取られているときだ、と。

だから彼の処方は具体的です。

照明は低く、離して配る。椅子やテーブルを、泡のように包む光だまりを作る。そして忘れてはいけない。あいだに暗がりがなければ、光だまりは光だまりにならない。

この一文は、そのまま住宅照明の核心です。

光だまりは、光だけでは成立しません。暗がりとの関係で成立します。全部を明るくしたら、光だまりは消える。どこも同じように明るければ、テーブルの上の光も、ソファ脇の光も、ただの明るさの一部になります。

光の泡を作るには、その外側に少し暗い空気が必要です。

日本の住宅は、この「あいだの暗がり」を怖がりすぎています。暗いと言われたくない。失敗したと思われたくない。安全ではないと思われたくない。

もちろん、動線や階段や作業面に必要な明るさは確保しなければなりません。ただし、必要な光と、すべてを均す光は違います。

暗がりは、いつも欠陥ではありません。使い方によっては、場所の輪郭を描く地の色になります。

人は、十分に明るい部屋でも光だまりを探す

光だまりとあいだの暗がりの概念図(食卓と読書椅子を包む光の泡)

Alexander は、観察の裏付けも添えています。

カリフォルニア大学バークレーの国際館の談話室。そこには42の席があり、そのうちランプの脇にある席は12席だけでした。

部屋のどこにいても、読書に足りる明るさはある。つまり、機能上はどの席を選んでも問題ない。

ところが実際に数えてみると、居合わせた人の半分以上が、そのわずかなランプ脇の席を選んで座っていた。

明るさが足りていても、人はなお光だまりを探すのです。

これは、とても大切な事実。住宅照明では、「読める明るさがあるか」「生活に支障がないか」という基準で満足してしまいがちです。いっぽう、人が求めているのは、単に読める明るさだけではありません。

そこに座りたくなる明るさ。そこで話したくなる明るさ。そこに留まりたくなる明るさ。

それは、均一な明るさとは別のもの。レストランがテーブルごとに独立した光を灯すのも、同じ原理です。食卓の上のひとつのペンダントが、家族を「糊のように」集めるのも同じです。

あの光は、ただ料理を見せているだけではありません。人の輪を作っています。

光だまりは、壁も建具もなしに「ここ」を作る。

Alexander が挙げる例は、家の外にも続きます。

夜の公園で、一本の外灯の下のベンチだけが、恋人たちの私的な世界になる。トラックの操車場では、明るく灯ったコーヒースタンドのまわりにだけ、男たちの輪ができる。

どちらも、壁で区切られた場所ではありません。それでも、光があることで「ここ」が生まれている。

これは住宅でも同じです。

広いリビングの中に、食卓の光だまりがある。ソファ脇に、低い読書灯の光だまりがある。キッチンの手元に、作業のための光だまりがある。廊下の先に、玄関へ導く光がある。

それぞれの光が、それぞれの場所を作る。

部屋を増やさなくても、場所は増やせます。壁を立てなくても、居場所は分けられます。

ワンルームでも、光だまりが三つあれば、三つの場所を持てる。

これが、Alexander から modernova が受け取るべき考え方です。

光だまりは、置き方を誤ると空振りする

光だまりが人の営みと重なる場合とずれる場合の対比図

ただし、このパターンを簡単に読んではいけません。

Alexander は最後に、正直な注意書きを残しています。この考え方は理解も同意も簡単だが、実際に機能する光だまりを作るのは難しい、と。

ここが重要です。

光だまりを作るとは、小さな照明を適当に散らすことではありません。スタンドライトを増やすことでも、ペンダントをいくつも吊るすことでもありません。間接照明を足せばいい、という話でもない。

失敗の典型は、均一さを壊すことには成功したものの、その光だまりが人の営みと噛み合っていないケースです。

誰も座らない床の隅が明るい。ソファの上は暗い。食卓の中心から光がずれている。本を読む場所に光が届いていない。会話が生まれる位置ではなく、ただ壁の一部だけが明るい。

これでは、ただ斑な照明です。

光の泡と、人の営みの位置がずれていれば、光だまりは機能しません。

だからこのパターンは、器具の話である前に、暮らしの観察の話です。

どこで本を読み、誰とどこで話すのか。夜、家のどこに人が溜まり、食事のあと誰がどこへ移動し、一人になりたい人はどこへ座るのか。

それが答えられて初めて、光だまりの置き場所が決まります。

ここを飛ばして照明計画を作るから、日本の住宅では光が暮らしからずれていきます。

器具の位置は決まっている。照度も足りている。見た目にも整っている。

ところが、夜に人が本当に座る場所と合っていない。家族が自然に集まるところに、光の中心がない。逆に、誰もいない場所だけが明るい。

これは、照明が暮らしを見ていないということです。

光だまりは、人の居場所を先に見なければ作れません。

家全体にはタペストリーを、部屋の中には光だまりを

二階建て住宅の断面に見る明暗のタペストリー(家全体の明暗の地図)

二つのパターンは、家一軒のスケールでひと組になります。

「光と闇のタペストリー」は、家全体の明暗の地図を描く。「光だまり」は、夜の部屋の中に場所を打つ。

この二つは、別々の話ではありません。

玄関は、廊下より少し明るく迎える。廊下は、リビングの入り口へ向かって明るさを増す。リビングに入ると、食卓とソファに光の泡が浮かぶ。そのあいだには、穏やかな暗がりが横たわる。階段は、安全だけでなく、上階へ誘う光を持つ。寝室は、部屋全体ではなく、眠りへ向かう低い光に重心を落とす。

こう書くと、特別な設えのように聞こえるかもしれません。ただ要は、家の中の明るさに意味のある高低差をつける、ということです。

すべての部屋を同じ明るさにする計画は、この高低差を最初から放棄しています。

リビングも明るい。廊下も明るい。玄関も明るい。寝室も明るい。洗面も明るい。

それは一見、失敗のない家に見えます。しかし、光の地図としては平坦です。

どこへ向かい、どこに集まればいいのか。どこで静まり、どこが美しい場所なのか。

その差が見えない。

Alexander の二つのパターンは、この平坦さへの批判として読めます。

家全体には、光と闇のタペストリーが必要です。部屋の中には、光だまりがいる。そして、そのあいだには暗がりが必要です。

ついでに言えば、本の中でこの二つのパターンは、どちらも同じ次のパターンへ読者を送ります。光だまりを、あたたかい色の光で満たせという「暖色」のパターンです。

差を作る。泡を置く。最後に色を整える。

Alexander の夜の光は、この順番で完成するようにできています。

この順番も、現代の住宅照明にとって大切です。

いきなり色温度から入らない。いきなり器具から入らない。いきなり何畳用かを考えない。

まず、家全体の明暗の地図を描く。次に、人の営みが起きる場所に光だまりを置く。最後に、その光をどの色で満たすかを決める。

順番を間違えると、照明はすぐに設備の話へ戻ってしまいます。

modernova はどこを採用し、どこを採用しないか

modernova が Alexander から採用するのは、まず「光は場所を作る」という定義です。

部屋の数だけ場所があるのではありません。光の濃淡の数だけ、場所があります。

ワンルームでも、光だまりが三つあれば三つの場所を持てる。広いLDKでも、光が均一なら、ひとつの大きな明るい箱にしかならない。

この違いは大きい。

住宅の照明計画は、部屋を明るくするだけでは足りません。その部屋の中に、どんな場所を作るのかまで決める必要があります。

この光だまりの連なりは、リチャード・ケリーの光の三要素 における「焦点の光」とも、まっすぐ響き合う考え方です。人は、均された明るさの中ではなく、焦点を持った光の中に集まります。

そして、「行くべきところを明るく、それ以外を暗く」という動線の原則も採用します。

玄関や階段の明るさを、防犯や安全の話だけで考えない。家の案内表示として考える。

人は光に向かって歩く。ならば、光は家の道しるべです。

どこへ入り、どこで曲がるのか。どこに座り、どこが美しい場所なのか。

それを光で示す。

「あいだの暗がりが光だまりを成立させる」という一文も、そのまま採用します。

暗さは、削るべき欠陥ではありません。光だまりの輪郭を描く地の色です。

日本の住宅照明は、この暗さを消しすぎてきました。その結果、明るいのに場所がない家を作ってきた。

私は、そこを疑います。

ただし、採用しないこともあります。

このパターンを、器具の推奨として読むことです。

Alexander が書いたのは、白熱灯の時代です。低い位置のスタンドを増やすことが、処方の中心にありました。

もっとも現代の住宅では、手段はもっと多い。建築に仕込む間接の光でも、同じ「泡」は作れます。棚下のライン照明でもいい。足元の低い光でもいい。壁面を柔らかく照らす光でもいい。ダイニングのペンダントでもいい。ソファ脇のスタンドでもいい。

手段は、時代と空間に合わせて変わっていい。

変わらないのは、人は光に向かって歩き、光の中で群れる、という観察の方です。

modernova が受け取るのは、器具の形式ではありません。光が場所を作るという原理です。

だから、私は「スタンドを置けばよい」「ペンダントを吊ればよい」「ダウンライトを減らせばよい」という単純な処方にはしません。

必要なのは、その家の中で人がどこに集まり、どこを通り、どこで一人に戻るのかを見ることです。その営みに合わせて、光の濃淡を作ることです。

家の照明図を前にしたら、まず器具の位置を見るのではなく、夜の家族の位置を描き込んでみてください。

誰がどこに座り、どこで本を読み、どこで食事をするのか。どこで会話が生まれ、どこでひとり静かになり、玄関から帰ってきた人はどの光に向かって歩くのか。

その図と照明図が重なっていれば、その計画はもう半分できています。

反対に、二つの図がずれているなら、どれだけ器具が整然と並んでいても、その照明は暮らしを見ていません。

家の光を考える人が、Alexander の二つのパターンから持ち帰るべきものは、ひとつです。

光は、明るさを足すためだけのものではない。場所を作り、人を導き、人の輪を結ぶものです。

均一な明るさは、安心に見えるかもしれません。それでも、そこに場所は育ちにくい。

明るい場所があり、暗がりがあり、その差の中に人が集まる。そのとき、家はただの明るい箱ではなく、居場所を持った空間になります。

なお、家ぜんたいをひとつの光のまとまりとして貫く設計は、家全体の照明を一貫させるという考え方 で掘り下げています。

参考文献

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